昭和56年2月25日 朝の御理解 中村良一
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」
これまでの信心、んー、これまでは、まぁ、神がものを言うてくれるといったような事は無かったであろうがと。言うところを、いわゆる、私が申します、前代未聞という事があるです。ね。過去の信心というものは、んー、一心を立てる、神様を拝む、ね。おかげを頂きたい、ね。それこそ、人間業ではどうにも出来ない。ここに、いうならば、奇跡を見ると申しましょうか、ね。神様からは、不思議なおかげを頂くもんだと、というのであったと。これまでとこうある。これは、だから、過去の信心とは、全然違ったもの。これからは、神がものを言うて聞かせてくださる。本当の事を教えて下さる。ね。これからは、いうならば、せっかく信心をするならば、ね。天地を対象とした信心。ね。天も地も、昔から死んだ事なし。ね。これからの、ね。これまでは、そすと、これからはというところを、この御理解は、はっきり教えておられるように思いますね。これからは、だから、天地を対象とした。しかも天地は、ね。えー、死んだ事がない。ね。此方が祈るところ、天地金乃神と一心なり。もう、いよいよもって、神様と氏子とが、いうならば、親子の情というか、夫婦の情というか、いわゆる、一心同体である。此方が祈るところ、天地金乃神と一心なり。ね。いわゆる、今、合楽で言われる、合楽世界である。神様と氏子とが、合楽しあえる世界。天地が生きてござる。天地はそのまま真である。そこで、天地の道理を説き明かされ、天地の大恩を教えて、天地の大恩を分からせて。
昨日の、大和さんのところの、おー、謝恩祭でしたが、もう、年年歳歳、充実した盛大なお祭りでした。そのお祭りの後の御理解のなかにも、ね。天地の大恩という事。天地の御恩徳。天地の道理という事を、一通り聞けば、なるほどそうだと合点が行くというのである。分かるのである、誰でも。だから、信心は、分かることではなくて、それを感じる事だという御理解でした。それを感じるんだ、ね。だから、天地の大恩を感じるから、そこに、有難いと言う実感が生まれてくるのである。しかもその、実感というのは、いよいよ、大きく広く、ね。深く分かっていく。だから、信心とは、一年一年有難うなって行くと言われるように、ね。そのおかげを、おかげと、段々、広く深く、大きく分かっていくから、有難いという心も育っていく。限りなく、その有難いという心は、大きく育っていかなければ、ね。まぁ、信心をすれば、一年一年有難くなってくるというのは、そういう事が、いわゆる、感じられるから。いわゆる、天地の大恩が、その感じ方が、ね。変わってくるのです。二つの身体であって、一つのような感じである。そういう感じである。此方が祈るところ、天地金の神と一心なりとある。ね。これは、教祖金光大神様だけの事ではない。そういう信心。神がもの言うて聞かせてくださることは、もう、一から十まで、私共と神様、私共と天地との関わり合い。親の心、天地の心だけではない。天地の真理、法則だけではない。ね。それが、私共、人間の幸福を左右するもの。だから、天地、それをひっくるめて、天地は真。
大和さんところの、私どもが、何時も、あちらへ参りまして、控えに使うてある小さい、ま、気の利いた小さい部屋がございます。そこに、私が書いて差し上げとったのでしょう、色紙が、あの、丸い額に入れて掛けてあります。それには、天真地心とあります。天真とは、天の真と書いてある。地心とは、地の心と書いてある。こんなのを書いて差し上げたことを、覚えはないけれども、こら、大体、勿論、字引なんか引いてある文句でもありませんから、神様から頂いた、言うなら、合楽語である。ね。どういう意味だっただろうかと、改めて思うて見た。天真とは、天の真。天は真なりという事である。その真の中には、降る事もあれば照ることもある。吹く事もあれば、嵐もある。寒い、暑いもあるのである。ね。そこで、暑いのは嫌、寒いのは嫌というのではなく、暑いからこそ、おかげを頂いておる。寒いからこそ、出来ておるという事実を、私共が、分からせていただく時に、いうなら、四季折々の、その気候、こりゃ、気候だけの事ではありませんけれども、成り行きとして起きてくる、その全てが神愛であり、真であるというふうに合楽では説くのです、ね。だから、私共も、真にならせて頂くことによって、天地との交流が計られるわけである。天地と繋がっていくのである。天地金乃神と一心なりという信心を、段々、身につけていくのである。ね。ほんなら、真で助からない事はない。真とは、真とはと、まぁ、あー、真の追求をするわけだけれども、合楽では、それをもう、はっきり教えておる。合楽理念は、真とは、合楽理念、そのものが真だと、こう言われるように、合楽理念に説かれるところ、いうならば、地の心。地心である。ね。土の心である。黙って治める心である。それが真なのだと。ね。天の真を、いうならば、地の真を持って受けていく。真と真の出会いである。ね。一つになる手立てである。ね。一心同体である。そこに、合楽世界があるのである。ね。私は、今日は、この御理解を、改めて素晴らしい御理解だなぁと感じながら、皆さんに聞いて頂いてるわけせすけれども、なら、これまではと、こう仰るから、だから、今までの、過去、数千年にわたっての人間が、拝んできた信心とか、神様と言った様なものはこれは、まぁ、昨日のローマ法王の、あれにもつながる事になりますけれども、ね。もう、そういうものは、なくしてしまわなければいけんのである。人間が本当に助かる事のためには。ね。昨日、大和さんのところでも話した事ですけれども、二三日前、キリスト教の、おー、まぁ、何というでしょうかね。神官というでしょうか、その、人間に対するその、教訓ですかね、の教えの中に、こういう生き方をする者は、地獄に行く。こういう生き方をする人は、天国に行けれる。その、天国と地獄のあいなかに、煉獄というのがある。その、煉獄というのは、ね。まぁ、いうならば、一応、火あぶりに合わなければならない。火あぶりの合うた魂が、天国にいけるんだという説明を、あの、しておりました。始めて、私は、テレビでそれを見ました。そして、それを見ながら、私は思うた。もう、人間の殆どが、だから、地獄行きせんなんごと出来ておるです、キリスト教は。こういう事を思うたり、こういう事をしたりするものは、もう、地獄に行くと書いてある。もう、私共は、絶対、キリスト教的になら、地獄に行くことになるのです。それでも、やっぱ、天国に行きたいと思うなら、火あぶりあわにゃいかんです。いや、そげん説明しておったんです、テレビで。そしてあの、地獄、極楽の、あの絵画というですかね、それをこう見せながら、煉獄とはこういうとこだ、地獄とはこういうところだと、天国とはこうだと。だから、誰でも天国に行きたいけれども、天国に行こうと思うなら、人間止めにゃ出来んです。人間が人間らしゅう生きるという事が出来ない。ね。本当に、なるほど、おー、あの、大変、無教会主義のキリスト教をされた、日本の、誰だったかね、は、は、内村鑑三さんというかね。あの方が、晩年に悟られた事。言うて残しておられる事。沢山なキリスト教の本を書かれた方なんです。そして、自分が、もし、キリスト教者でなかったならば、もちっとましな人間的な生き方が出来たであろうのにという事を、言い残しておられるです。如何に、キリスト教が、もう、いよいよ、この世から、本当言うたら、なくなってしまわなければいけないような、これは宗教だという事です。そこんところは、教祖はね、これまでのとこう言っておられます。だから、これは、キリスト教だけの事じゃない。これまでの信心というのは、本当のことは分からんなり、ただ、神様から、ね。どうぞ、メクラが目を開けてください。チンバが足を立たせてください。なるほど、それでもおかげは頂くと言うのである。それは、わが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。一心に、例えば、わが心に神がござるから、チンバが立ったり、メクラが目が開いたりといったような、言うなら、奇跡的な、まぁ、キリスト教は、奇跡の宗教と言われるが、その奇跡の宗教が起こったんだという事。ね。だから、もうこれからは、神がもの言うて聞かす。どういう風に言うて聞かせて下さるかというと、天地の大恩であり、天地の道理である。しかも、その天地は、もう、昔から死んだ事がない。生きとおしに生きておられる天地。その天地を、私共の、生き生きとした心。いわゆる、天地は真であるから、私共が、真を追及して、真を持って、その天地に接していく時にです。天地の真と、人間の真が通い合う。それを、合楽世界と言うのである。交流が始まるのである、ね。昨日の、大和さんところの、お話の、ま、芯というならば、今までは、おかげをおかげというて、神様かあ、おねだりをするようなおかげから、ね。生み出していけれるおかげをというのが芯でした。ね。交流し合う、いわゆる、天地金乃神と一心なり、ね。二つの身体であっても、一つと同じ。夫婦は、一心同体というが、夫婦だけの事ではない。金光様のご信心する者は、神様と、私共が一心同体にならせて頂けれる手立てが、合楽理念に説かれてあるのである。ね。そこから、交流し合う、そこから、願わんでも頼まんでも、生み出され来る、次々と。ね。そういうおかげを、教祖金光大神は説かれたのです。この御教えは、だから、大変なまた、御理解だなと、改めて思うです。ね。いうならば、合楽理念に言う、金光教の信心は、前代未聞の宗教だと。宗教以前の宗教なんだと、と言う意味が、皆さん、段々分かって来るでしょう。ね。そういう、言うなら、有難い、そういうほどしのおかげの世界に、私共は、おかげの頂けれる縁を頂いたのであるから、いつまでも、いつまでも、ただ、神様ちゃ、お取次ぎをいただいえ、お願いをしておかげを頂くと言うだけではなくて、お取次ぎを頂いて、信心を頂くと言う事に、一つ本当に、自分の心を、すっきり切り替えられなきゃね。いつまでも頂く信心という事になるんです。生み出す信心、ね。生み出していけれる信心。教祖は、せっかく、言うなら、もの言うて聞かせて下さるということは、その事の手立てを、まぁ、一言に言うと、まぁ、御神徳を受けるという事になりましょう。私共は、御神徳を受けるという事になる時に、初めて、人間の幸せの条件が足ろうとこういう事は、ね。それが、いつの間にか、ね。
昨日、大和さんのところに参りましたら、お座敷に額が掛かっておる。なんか、表彰状のようなもの。あれは、何のつのち言うちから、読んで貰いましたら、永い間、医者に掛かられなかったから、それの、何か、表彰がお受けておられるのであった。ね。信心をさせていただけば、段々、家庭、五つの願いにあるように、先ずは、体の丈夫を願えと仰るから、その体の丈夫のおかげを、もう如実に、大和さんは現しておられるのである。夫婦のものが、それこそ、手に手を取って、毎朝、朝の御祈念にお参りをされるという事は、家庭に不和のなきが元、その元そのものを受けておられるのである。ね。子に孫に、その信心が。
昨日は、白神先生たちも、夫婦でご参拝のおかげを頂いておりました。ね。それこそ、まぁ、教団の名門と言われる白神家に、言うなら、娘は、お嫁に行くような働きが起こってきておる。ね。いわゆる、子孫繁盛、家繁盛の元がです。今、ちょうど、懐妊のおかげ頂いて、この六月に子供が生まれるそうですが、その子供はもう、いわゆる、白神家の、ね。何代かを継ぐ子供になるに違いはない。いわゆる、子孫繁盛、家繁盛も間違いない。ね。いつの間にか、段々、おかげを頂いて、ね。日まさり、月まさり、年まさり、しかも、代まさりのおかげが、そこに兆しが見えるほどしのおかげを、段々、頂いていくという事。それには、どうぞ、どうぞというのじゃなくて、それこそ、改式のおかげも頂いて、一年に一回の、ああした、謝恩のお祭りも、せずにはおれないお祭りが、仕えられるというところに、私は、昨日は、本当に、大和さんところのお祭りの意義というか、素晴らしいなぁという事を思わせていただきました。ね。そういうおかげの頂けれる、ね。金光様の信心すりゃ、それこそ、百万円の宝くじが当たるといったようなおかげではなくて、いつの間にか、一年一年有難うなって行く、しかも、その有難いというものは、あの世にまでも持って行かれると、自分も確信が出来るようなおかげを受けていくという事。そして、ギリギリ、此方の祈るところ、天地金乃神と一心、同根と言われるほどしの信心が、めいめいの上にも出来て、初めて、これまでの信心と、これからの信心の違いが、そこにあるわけですよね。どうぞ。